テンプレ化していること。特にテンプレ化していることに本人が気付いてない場合がいたたまれない。
この世の中のありとあらゆる森羅万象の事象で、テンプレ化しているのにも関わらず、本人は至ってオリジナル性が高いと思って行っている行動ほどイタイ出来事はこの世にないと思う。
例えば、ハイエース(黒)にドヤ顔で乗っているちょっとヤンチャそうな人物。
窓からタバコを持った手を出して、一体何があったのか、目一杯体を反り返らせて上から目線で周囲の車を威嚇する。
ちょっと挙動不振な車が周囲に走っていると「プアアン!!」などと、必殺おならクラクションを鳴らす。
彼の手は、運転中いつでもクラクションに最速でタッチできるように考えつくされた位置にスタンバイされている。
だいたい、彼のフォルムは茶髪で短髪、黒いTシャツを着て、やすもんくさいネックレスが胸に輝いている。
駐車場に停車しているそれらの車の横を通ると、吐き気を催すほどの芳香剤の濃密な香りが漂ってくる。
まるで車内でバルサンを焚いているかのようだ。
ダッシュボードの上には謎の白いファーの敷物が置かれている。
フロントガラスには謎のキーホルダーが寂しく揺れている。
私はこういった車と人物を見るたびなぜこんなことになってしまうのか、不思議でしょうがない。いたたまれない気持ちになってくるのである。
彼らの気持ちを邪推してみると、恐らくかっこいいと思ってそれらの所業を行なっているのではないか。
モテるであろう、と思っている可能性があると言うことである。しかし、一般的にヤンチャそうなのがかっこいいという思想ははせいぜい高校生、いや中学生までの世界観である。
黒いバルサンハイエース(中古、ローンで購入)に乗っている男はせいぜい20代である。ちょっと田舎の地方に行くと最悪の場合、40代くらいのおっさんが同じことをしている場合もある。
なぜその世界観から脱出できなかったのか?彼らにはブラックホールの如く、ヤンチャはかっこいいという思想が存在する。光の速さで走り抜けてもそれを振り切ることはできない。
ファッションというものが世の中にはある。これは広く定義してしまうと、テンプレ化していることを自身の判断で取り入れ、それに近づけていくことに他ならない。静かなる強い主張だ。
例えば、きゃりーぱみゅぱみゅが好きであれば、それらしき格好を好んでする。
これできゃりーぱみゅぱみゅが好きで、あのような世界観に憧れていると口に出さなくとも周囲の人間に自身の興味を知らしめることができる。
かわいいでしょ。と。
しかし、その人にさほど興味のない人から見るとやたら主張が強いため、ただのうっとおしい人になる。
そこにはきゃりーぱみゅぱみゅが醸し出す1番の魅力であるオリジナル性のカケラも感じられず、似ているが全く異なるものが存在しているのである。
きゃりーは自分の好きなものをどんどん選択していった結果、あのようなフォルムが完成したに違いない。
しかし、彼らはそうではない。
結局のところ、突き詰めて考えると彼らには本当に好きなものがないのではないかと思えてくる。
自分の好きなものを逐一選び続けるとそれはオリジナルなものになる。はずである。
決してテンプレ化したものにはならず、きゃりーぱみゅぱみゅにもならない。
彼らには本当に自分の追い求めるような好きなものがない。あったとしても、それに気づけない、あるいはそれに気付いても自分の好きなものを表立って主張できない。
そんないたたまれなさがあるような気がする。
今日も私の家の表にはドヤ顔ハイエースが轟音と共に走り抜けていく。
非常にいたたまれない。
そう思うに至る、冬のある日。